90年代の新日本プロレスには欠かせない選手、と言えば枚挙にいとまがありませんが、とりわけジュニアヘビー級で、というとケンドー・カシン選手を挙げる方も多いのでは?と思います。
今回は、マスクマンプロレスラー ケンドー・カシン選手の『フツーのプロレスラーだった僕がKOで大学非常勤講師になるまで』を紹介します。
『フツーのプロレスラーだった僕がKOで大学非常勤講師になるまで』
ケンドー・カシン選手を知っている方は、どんなイメージを思い浮かべますか?変わり者、偏屈、変人…。やっぱり「ヘンなプロレスラー」という印象の方が多いのではないでしょうか。
プロレスファン歴が長い私が思いつくカシン選手のヘンなエピソードは…
- 中西学を馬鹿にしている
- 蜘蛛のデザインのIWGPベルト
- 認定書破り事件
- 全日本プロレスへ移籍
- 世界タッグベルト返還訴訟
あたりでしょうか。
本書は、カシン選手の学生アマレス時代から新日本プロレス入団~全日本プロレスへ移籍~総合格闘技への挑戦~フリー選手として他団体参戦~早稲田大学入学、慶応義塾大学で勤務などを振り返る自伝本です。インタビュアー(誰かは不明)が質問しながら進んでいきますので、著作物というよりは激白本ですね。
ちょっと珍しいタイプのプロレス本
インタビュー形式ではあるものの、応答するカシン選手が”ヘン”なままなので、終始カシン選手流の回答が続きます。ある程度カシン選手のこと(性格的なものも含めて)やプロレス業界のエピソードを知っていないと、なんだかよくわからないまま本の内容が進んでいくことになります。
もっとも、この本の表紙デザインで、「カシン選手を知らない」「プロレスのことをよく知らない」方が手に取る可能性はかなり低いとは思いますが、プロレスマニアのための知識本としては一定の価値はあります。
本音を言うと、私はカシン選手があまり好きではありませんでした。なぜって自分勝手なんだもん。それがプロレスラーのキャラなのかもしれないけど、他にまじめにやっているレスラーがいて、ちょっとトンパチ(常人じゃない規格外なプロレスラーのこと)気味にふるまって人気があって。そこに社会の縮図を見ている気分になっちゃったんですよね。
あ、でも入場曲「スカイウォーク」は名曲!
なぜ中西学を馬鹿にするのか
カシン選手は事あるごとに中西学選手(新日本プロレス、すでに引退)を馬鹿にしてきました。私は中西選手のファンだったので、カシン選手のいじり方は非常に不快でした。中西選手がショッパイとか馬鹿だということを否定したいのではなくて、単純に面白くないなあ、どっちも得しないなあと感じながら観ていました。
どうやら、因縁の始まりは学生時代のレスリング合宿でスパークリング中に中西選手が頭突きをしてきたのをやり返したのが発端のよう。その後もアマレス選手として闘魂クラブ(新日本プロレスの社会人レスリングチーム)所属時に会社で事務員をやっているときも同執務室で仕事をしていたエピソードが語られています。
他にも、ことあるごとに中西選手の小ネタ小バカが出ていきます。カシン選手が中西選手と合わないというのはよく分かったんですが、(本当に馬鹿なのかもしれないけど)そこまで馬鹿いじりするのはあまり理解ができないですね。人付き合いってお互い様な部分がありますからね。相手を否定するのって、結局は自分都合じゃあないですか。
そうそう、いつからかカシン選手の入場曲「スカイウォーク」の前奏に「プロブレム!」という音声が入るようになりましたが、これも中西選手イジリですよね、きっと。(中西選手は一時期「No Probrem」という入場曲を使っていた)
リングネーム、ケンドー・カ・シン
遠征先の欧州で、プロモーターのオットー・ワンツらが考えたマスクマンリングネームのようですね。ある日パンフレットに「ケンドー・カ・シン」と書いてあったのだそうです。ケンドーはケンドー・ナガサキ(桜田一男)から引用されているんだろうと。お笑い芸人のケンドー・コバヤシもナガサキのリングネームから芸名を拝借したようですね。
当初のリングネームが、カ・シンだったのは、カシン選手曰く「タイガー・ジェット・シン」みたいなアジア系の名前を連想させる、シンに”カ”が付いたものだったんじゃないか?とのこと。いつのまにか、”カシン”に変わっちゃいましたね。
蜘蛛デザインのIWGPベルト
1999年8月にIWGPジュニア王座戴冠後に、勝手に自分だけのチャンピオンベルトを作ります。洋服屋の友人にデザインしてもらって、アメリカの職人に作ってもらったとのこと。長州力にもライガーにも怒られなかったとか。
こういうのは、最初から言っておくと、「ダメ」ってなる。「ダメ」って言わなくちゃいけないから。だから、いちいち聞かない方がいい。物事は聞くとだいたい「ダメ」って言われるから、最初にやって、あとで誤った方がいい。謝るなり、そのまま知らんぷりするなり。
ーカシンさんの哲学ですね。
哲学というより西学。
本書P162より引用
ここでも中西学いじりが健在です。
勝利者トロフィーを投げる、認定書を破る
誰もやっていないから、その場の空気でやっちゃう。怒られると思ったら、怒る人を避けて逃げちゃうんだそうです。ウーン変人です。
でこの破天荒っぷりに当時は結構観客が湧いていましたね。カシン選手らしいエピソードでもあります。
全日本プロレスへ移籍
当時、新日本プロレスの人気選手だった武藤敬司・小島聡・ケンドー・カシンの3選手が、NOAHへ分裂後の、死に体であったライバル団体の全日本プロレスへ移籍します。
武藤敬司は新日本プロレスの格闘技路線に嫌気がさして、小島聡はプロレス界でトップを取るための環境変化、ケンドー・カシンの移籍はちょっと謎な部分が多かったのですが、本書によると「猪木派と目された自分が移籍したら面白いから」だそうです。
また、コーチとしての役割を期待された部分も多かったようです。当時、全日本プロレスには馳浩が居ましたので、そちらのルートからの誘いもあったようですね。
全日本プロレス解雇、ベルト返還訴訟
そして、ガチかアングルかよくわからなかった「ベルト返還訴訟」については、全日本プロレス元取締役の青木謙治氏との対談で真相に迫っていきます。この章は、私が知らなかったエピソードがかなりたくさんありました。そして、変人ケンドー・カシンが青木氏の話を通してみると「すごく情に厚い男」だということも新たな発見でした。簡単に、私なりの解釈を以下にまとめます。
- カシン選手が全日本プロレスを解雇になったのは、全日本プロレスの経営状況を見かねたカシン選手が、自分が辞めればギャラが浮くからと青木氏に解雇を要請したことが要因
- 当時、永田&カシン組で世界タッグ王座を保持していたが、解雇となったことから全日本プロレス側(というより経営に参画してきた武藤夫人)が返還を要請。カシンはタイトルマッチを組むように依頼するも実現せず、訴訟に発展した。(カシンは負けてベルトを返す予定だった?)
- 全日本プロレス移籍当初から相当経営状態が厳しかった。スポンサーがいない、ギャラが払えない、給料が未払い、会場が抑えられないetc。
この青木氏の対談だけでも読む価値があります。
新日本プロレスはスキャンダル系の話題はたくさん出ていきましたが、武藤体制の全日本プロレスの内情を語られることはそう多くないので、そんなに金回りが厳しかったとは意外でしたね。ビル・ゴールドバーグのギャラが相当高かったようです。
プロレスラーの総合格闘技挑戦
2000年代初頭は、新日本プロレスのレスラーが総合格闘技に挑戦(というか駆り出されていた)時代です。カシン選手はアマレスがバックボーンということもあり、多分に漏れずアントニオ猪木からの指示で出場し、ハイアン・グレイシーに一方的な内容でKO負けを喫しました。翌年リベンジし、その後も様々な総合格闘技のリングへ出場しますが、突発な依頼が多かったそうです。
プロレスラーの総合格闘技挑戦に関しては、「オーナーであるアントニオ猪木から要請されれば断れない」「プロレスと総合格闘技の二足の草鞋は無理」と結論付けられています。
まとめ
ケンドー・カシン選手のことが気になる方にとっては、かなり広い話題がカバーされていますので、きっときっと知らないエピソードもあるはず。触れませんでしたが、安田忠夫との関係や大仁田厚との縁なども語られています。
特に、「ベルト返還訴訟」と「総合格闘技」に関しては、かなり読みごたえがあって、カシン選手本人もすかさずに真剣に語っている印象を受けました。
あ、本書のタイトルになっている慶応義塾大学の非常勤講師の話にはあまり詳しく書かれていませんので、ご注意を。
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